迷信の山の歴史
2010年11月08日(月) 記 : 鈴木 朗

 フランスとイタリアの国境の山、モンブランは、フランス語の山のMonと、白のブランの合成語です。即ち、白い山が語源です。イタリア語も同様に白い山、Monte Biancoと言います。標高は4810.9m、西ヨーロッパで最高峰の山です。フランス側からのモンブラン観光はシャモニーが基点となります。イタリア側には観光の基点の町はありません。その理由はイタリア側が急峻すぎるからです。

 日本の山は参詣の対象であり、霊峰と言われる富士山のように大衆信仰の対象です。険しい山は修験者の練行の場でもありました。一方、アルプスは人から恐れられ、悪魔や地獄に落ちた人が住む世界と長い間信じられてきました。草木もまともに生えない高山ですし、山肌を覆う雪や氷河を見たら、神を信じる人たちには立ち入るべき世界には見えなかったのでしょう。

 このような悪魔が住む山に踏み入るのは、水晶取りを生業にする人だけでした。ジャック・バルマは有能な水晶取り。山登りにも慣れていました。彼が仲間とモンブラン登頂を試みたのは1786年6月9日でした。しかし、途中で道を失い、4000m地点で仲間たちに見捨てられてしまいました。それでも彼は山で一夜を明かし、何とか生還できました。山で一晩過ごし、下山できた事実が山を恐れる迷信を払拭するきっかけになりました。有力者が賞金を用意し、冒険者を広く募りました。

シャモニーの町にある、ジャック・バルマの像。右下の氷河が登頂コースと言われています。
エギュデュミディ展望台(標高3842m)よりモンブランを望む。下界から見る崇高さとは全く違う世界です。

 高所の科学的実験に興味を持っていたミッシェル・ガブリエル・パカールとバルマが出会ったとき、バルマには病の娘がいました。バガールはバルマに報償金を譲る条件を提示し、彼をガイドとして誘いました。二人は1786年8月7日に登頂を目指し始めました。アイゼンやザイルなどの用具もなく、杖(写真参照)と毛布だけの軽装でした。寒さに耐え、翌日8日の18時23分、やっと山頂に立てました。これがアルピニズムの歴史の始まりです。バルマが最初のアルプス登山ガイドになりました。

イタリア側から見たモンブラン山群。ツール・ド・モン・ブランのコースとして有名な谷です。
エギュデュミディ展望台から見た東側(スイス方面)の展望。生命の存在出来る余地は全く感じられません。

 バルマが英雄となり、劇的に幕を閉じた山頂征服物語でした。しかし、事実こそ残酷です。この物語の影にも、目を覆う人間模様がありました。国によらず、時によらず、成功物語の裏にはもうひとつの悲劇があるのかもしれません。 功績に嫉妬した者が、バルマとパカールを対立させようとしました。そして、パカールは山頂には達していないと、悪意のある噂を流しました。パカールの釈明は通じませんでした。二人は喧嘩別れになりました。 こうしてバルマは人間嫌いになりました。

 さらにバルマに悲劇が訪れていました。彼は登頂成功後、下山しはじめて、最愛の娘の死を知りました。報奨金は受け取ったものの、全て盗まれてしまいました。彼は望みを失ったのか、狂ったように水晶や高山の金銀を求め、山に挑み続けました。後に彼は山中で消息を絶ち、行方不明になりました。水晶探しをしている人は価値ある鉱物の存在場所は誰にも明かしません。彼の姿は発見されませんでした。

 今、シャモニーの町は山を愛する人が世界中から集まっています。素敵な観光の町に変貌しました。モンブランの山頂からシャモニーの町に掛け、急峻な氷河が流れます。今でも、そこかしこにクレバスが口を開け、無用心な人を飲み込もうとしています。大自然に打ち勝ち、偉業を達成した二人に訪れたのは、賞賛の言葉でもなければ、愛情に恵まれた晩年でもありませんでした。挑戦し、成功した人に訪れた悲劇に、私は特別な 思いを感じてしまいます。

氷河のクレパス。ここに落ちることは死を意味します。バルマも人生の見えないクレバスに落ちたのかも知れません。